NULL値の遊蕩

Debauchery and Dissipation on NULL.

No.106

正確には


「利用者数の統計をcsvダウンロードしてきて、月間利用率をexcelで出して、グラフにして社内に公開する」「アンケートフォームを作って流す」「パワポで図説作る」みたいなしょうもない(しょうもなくもないが)作業も仕事で、その辺がまんべんなく出来て、いろんな人と会話できる程度の礼儀と語彙、理解力があれば飯は食えたりするんだよな

その辺って私にとっては『遊び』みたいなもので。「パソコンぽちぽちでなんか作って更新する」が昔からずっと私の遊びだったからその辺が仕事になる分にはあんまり苦ではない。そんなんで金が貰えて、

アホみたいな飲み会でカスにキャバ嬢仕草を求められることもなくなって、
クソ老害連中が死んで、

今ってすごく生きやすい。


2022年までこの世ってクソだった。

過去厨房の頃の私を未来から慰めるにも、そんなにずいぶん未来にならないとどうにもなんないんだって言ったら多分、死んでた

しかもそこまで結構な目に遭いながらずーっと努力し続けてようやくマシになったんだ、
なんて聞いたら絶望して死ぬ方を選んでてもおかしくない。

と思うと、未来なんてわからない方がいいんだなと。

いずれマシになると分かったとしても当時の私にはそれだけ続く苦痛と負荷を負う事はできなかっただろうから。「報われると分かっていれば努力するのは難しくない、報われるか分からないのに努力し続けられるのが才能」とかなんとか言うけど。

分かったって2006年やそこらから2022年とか2025年とか。15年越える長さを。耐えられるか?って無理だ。


わからなかったから、その場その場で出来る限り頑張り続けるような刹那的惰性的な過ごし方で死を先延ばしにし続けて、今にたどり着いた。自死にすら先延ばし癖が適用された事が功を奏したとは。
少し面白い。"禍福は糾える縄の如し"か。

なんやかや、いつもその場で出来る限り頑張ったりしちゃうというのが、自分の良いところであり悪いところなんだろうな。
日々を最後の日のように生きてしまう。
いずれ、いやもうすでに、それでは回らなくなってきているから、ぼちぼち変わって行く必要があるんだろうな。

ぼやき

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